ホーム記事一覧>「下中たまねぎ」とは?特徴と栽培の歴史に迫る

最終更新:2025/3/23

「下中たまねぎ」とは?
特徴と栽培の歴史に迫る



私たち東京大学Agrlienは、小田原市の特産品である「下中たまねぎ」の栽培を行い、毎年たくさんの方にご好評をいただいています。



本記事を読んでる方の中には、まだ下中たまねぎについてよくご存知ない方も多いのではないかと思います。

そこで今回は「下中たまねぎ」は何か?という点について、その特徴や栽培の歴史の観点から深掘りして整理をした内容を紹介したいと思います。

下中たまねぎの特徴

下中たまねぎ(下中玉ねぎ)とは、神奈川県小田原市・東部の「下中地区」と呼ばれる地域で作られた玉ねぎを総称したブランド名です。小田原市のHPの説明を借りると、『小田原市東部に位置する下中地区では、古くから続くたまねぎの産地です。相模湾に近い温暖な気候風土のほか、地元の畜産農家が育てている牛からの牛糞堆肥をふんだんに使用し、有機質をたっぷりと含んだ土壌によって、甘くて美味しいたまねぎを実らせます。』とあります。

なので、よく聞かれるのですが、「下中たまねぎ」という玉ねぎの品種があるわけでありません。4月ごろから収穫の始まる「早生(わせ)」と呼ばれるタイプに分類される品種が多く、「七宝(しっぽう)」という名前の早生品種などが多く栽培されています。中には、5月中旬以降に収穫・出荷されるもので、少し辛味のある「中生(なかて)」や「晩生(おくて)」タイプの玉ねぎが出回ることもあります。また、下中地区では、赤玉ねぎと呼ばれる赤紫色の玉ねぎも栽培されていて、特に湘南地域の特産品である「湘南レッド」は有名ですが、これは下中たまねぎという名前では販売されていません。

また、下中たまねぎはその殆どが「新たまねぎ」として流通していることも特徴です。新たまねぎとは収穫後すぐに販売される玉ねぎのことで、春先の 3月くらいから、九州産のものから順に、出回ります。玉ねぎは乾燥貯蔵させることで長期の保存も可能な野菜であり、主要な産地では夏以降は乾燥貯蔵されたものが出荷されますが、乾燥させると水分が抜けていくため未加熱の状態では辛みが強まります。したがって、新玉ねぎは、春の限られた期間しか食べることができませんが、みずみずしく辛みも少なく、生でも美味しく食べられます。

下中地区と玉ねぎの歴史

次に、下中地区と呼ばれているこの地域について詳しく見てみましょう。この下中というのは、1889年(明治22年)から1955年(昭和30年)までこの地域一帯にあった「下中村」という村に関連しています。それ以前に下中という地名がこの地域で使われていたかどうかは現時点ではわかっていません。なお、現在「下中」という地名(大字)は小田原市にはありませんが、「下中小学校」など下中の名前は玉ねぎ以外にも残っています。玉ねぎの畑は、現在の地名で、小竹、小船、上町、東ケ丘などにあります。


現在の下中地区(Google Map)

いつからこの地域で下中たまねぎが栽培されていたのでしょうか?

日本における食用の玉ねぎの栽培は意外と新しいもので、明治時代以降に北海道から始まっています。なので、下中村のあった期間も考えると、下中地区における玉ねぎの産地化は明治後半以降に始まったのではないかと考えられます。文献上の情報ではありませんが、大正末期の真壁浦次郎さんという農家が玉ねぎの作付けを始めたのがこの地域での玉ねぎ栽培の始まりとも言われています(参考:おだわら農林振興)。

加えて、 明治末期の1908年(明治41年)に下中に近い二宮町に設立された「神奈川県農業試験場園芸部(のちに神奈川県園芸試験場)」も、おそらく下中玉ねぎの始まりと発展に重要な役割を担っていたと考えられます。試験場というのは、品種の育成などの農業技術を研究開発を目的とした、田・畑・果樹園などを持った研究所のことを言います。この神奈川県農業試験場園芸部は、数多くの品種を作り「園芸の父」とも呼ばれた富樫常治氏の尽力によって設立された試験場でした。

昭和元年には、イエロー・ダンバースというアメリカから導入された玉ねぎ品種を元にした「二宮丸」という、二宮の名前を冠した玉ねぎ品種が、同試験場の竹内鼎氏によって作られています。二宮丸は晩生品種であったため、昭和30年ごろにまでには、収穫が早く病気の被害を受けにくい早生品種へと栽培の中心が移っていきました。その結果、「貝地極早生」という品種を元に「湘南極早生」という品種も品種改良で作られて、昭和40年代中頃まで栽培されていたようですが、戦後は種苗会社の開発した早生品種へと移っていたようです。
(参考1:かながわ ゆかりの野菜(神奈川県園芸種苗対策協議会 編)
(参考2:有用植物遺伝子原保有状況(神奈川県農業技術センター)


神奈川県園芸試験場(出典:二宮町HP

以上をまとめると、 大正時代末期以降、地域の農家さんと神奈川県農業試験場園芸部の農学者たちの尽力によって、下中地区における玉ねぎ生産が広まっていった、というのが下中たまねぎの歴史と考えられます。高度経済成長期にあたる1960年代の航空写真を見ると、この地域はまだ宅地開発が進んでおらず、多くの農地が残っていました。画像から田畑や品目の判断はできませんが、秋から春にかけてはたくさんの玉ねぎが栽培されていたのではないかと予想されます。


1960年代の下中地区の航空写真(地理院地図)

下中たまねぎの今

最後に、下中たまねぎ、そして下中地区の農業の現在について触れたいと思います。現在、日本国内の玉ねぎの多くは、「北海道」「佐賀県」「兵庫県(淡路)」で生産されており、神奈川県の玉ねぎ生産量は多くはありません。しかし、小田原市の特に下中で栽培される玉ねぎは、神奈川県における玉ねぎ生産のトップシェアを占めており、首都圏の恵まれた立地を生かして、ブランド玉ねぎとして流通をしています。神奈川県の地産地消を推進する「かながわブランド」というブランド農産物の一覧にも名前を連ねています(かながわブランドの紹介)。

一方で、小田原市の農業の生産量や耕地面積は徐々に減少していっており、下中地区でも「耕作放棄地」と呼ばれる農作物の生産が行われなくなってしまった田畑が点在しています。さらに、耕作放棄地の増加に伴って、獣害(特にイノシシによる農作物の被害)が近年急激に増加しています。


農地の減少(青木一実 (2022)を元に執筆者が作成)


獣害の増加(出典:青木一実 (2022)

地域の農業を活性化させて農業環境の衰退を抑えるためには、この地域の農産物の魅力をよりたくさんの人に知ってもらい、首都圏を中心とする消費者に応援してもらうことが求められています。

まとめ

美味しい玉ねぎとそれを育む農地を未来の子供達へと残していくためにも、これまでたくさんの人々の努力で培われてきたこの地域の農業を、守っていく必要があります。

地域の農業の魅力をたくさんの方に届けるために、私たち東京大学Agrlienは、2025年も地域の生産者の方と一緒に下中たまねぎを栽培しています。4月下旬からオンラインでも販売を予定しています。



今回の説明を見て、食べてみたいなと思われた方は、ぜひオンラインから購入してご賞味していただけたら嬉しいです。
また、気に入っていただいた方は、SNSでこの記事をシェアしていただけると嬉しいです。記事に関する感想などは下記のコメント欄にもお願いします。

(藤原)

コメント